前回のコラムでは(コラムニスト気取りかょ)、セミリタイア中だったヤマケンがリング復帰に向けて動き出したことを書きました(推奨して下さった『別冊・プロレス昭和異人伝』管理者さまに感謝します)。

そのコラムの冒頭で私はヤマケンを「気になる格闘家」と表現しましたが、具体的にどの部分に惹かれたのかを今回書かせていただきます。

まず、ヤマケンがセミリタイア前に試合を行なってきた団体・ステージの移り変わりを時系列順に書いてみます。

・UWFインターナショナル(以下、Uインター)でデビュー

・新日本プロレスとの対抗戦

・新日本プロレスとの対抗戦の中で、安生・高山とともにゴールデンカップスを結成。WARにも参戦

・Uインター解散→キングダム

・UFC−J初代王者に

・自分の首に賞金をかけ、クラブファイトを開催

・リングス、PRIDE、その他→セミリタイア

以上、こんな感じでしょうか。

これらの戦歴の中で私が注目して見ていたのはクラブファイトです。このステージにおいては前述のとおり自分自身を賞金首にして、挑戦者を募りました。

このクラブファイトでヤマケンが戦った相手は3人。第1戦:倉橋達也(サンボ)、第2戦:秋山賢治(禅道会)、第3戦:保村晃(柔道)。いずれも“名前”からすれば明らかにヤマケンよりも格下ですが、プロ格闘技の世界におけるその格以上の実力を有する猛者でした。

ヤマケンはなぜにこのような格上も格下も無いハイリスク・ローリターンな闘いに身を投じたのでしょうか?

その決断の背景として、新日本との対抗戦で大谷晋二郎に一本勝ちした試合が挙げられると思います。この試合はあくまで結果が決められたプロレスの試合でしたが、負けた大谷が試合後に荒れ狂いました。

「お前が俺に何ができた!?」

大谷は舞台裏でそのようにアピールしました。大谷が何を訴えたかったのかは今更書く必要は無いでしょう。

しかし、他団体の選手相手にわずかな格の差で負け試合をさせられた大谷よりも、勝ったヤマケンの方が辛かったのかもしれません。

そのような格付けで勝敗が決められるプロレスよりも格闘技としての真剣勝負に価値を見出していたヤマケンは、その後UFC−Jトーナメントに出場し、初代王者に輝きました。

にも関わらず、ヤマケンはさらにリスクの高いクラブファイトに身を投じました。あくまで格闘家としての実力にこだわったヤマケンに、私は深い感銘を受けたのです。

格がものを言うプロレスと、本来であれば実力のみが問われるはずの格闘技が未だに交錯している日本のマット界において、私はヤマケンのようなこだわりのあるファイターの存在は不可欠だと思います。

ちなみにヤマケンの価値観と正反対の位置にいるのが高田延彦とミノワマンじゃないでしょうか?この両者は絶対に格下の日本人とは試合をしませんから。

「高田選手は相手を選びませんね〜」とか「無差別級の試合に挑むミノワはすごい」などと評価する声もありますが、とんでもない話です。負けて元々の試合ほど楽なものは無いのです。

具体的に言うと、ミノワがミルコに負けたところで失うものは何も無いのです。

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