佐藤嘉洋のブログを読んだら、その中に“セルフプロデュースという近頃流行りの言葉が大嫌い”との旨の記述があった。
コスプレで入場する自演乙とは対極に位置すると見られがちな佐藤にしてみれば、派手なセルフプロデュースが持て囃されることは正直面白くないだろうし、競技指向者としてそれを蔑視したくもなるだろう。
しかし、私は「ちょっと待てよ」と言いたい。
セルフプロデュースとは、競技指向者から蔑視されるような行為ではないはずだ。
まず、セルフプロデュースの定義だが、何も競技そっちのけでコスプレしたり過激な発言をしたりすることばかりではない。
一人の人間に過ぎない一格闘家が、競技者然として立ち居振る舞うこともセルフプロデュースと言える。
例えば、一見するとセルフプロデュースとは掛け離れたように思える“ミスターストイック”小比類巻は、必ずしも試合に生かされない原始的なトレーニングに取り組んでいることをアピールしたり、線香の束を腕に押し付けた跡を披露したりと、実のところはセルフプロデュースの塊だった。
魔裟斗は自己管理の完璧はセルフプロデューサーだった。近頃の格闘家がブログで馬鹿をさらけ出してるような真似は一切しなかった。余計なプライベートは包み隠すこともスタアの条件なのだ。
逆にセルフプロデュースが出来なかったのがHAYATOだった(いつも引き合いに出してすみゃんせん)。テレビ局側の下手な演出に乗せられ、護魔修業を敢行。身分不相応の演出に身を投じたことで、軽薄な印象を格闘技ファンに植え付けてしまった。格闘家としての自己のイメージを崩さないこともセルフプロデュースの一環と言えるのだ。
唐突に政界に目を向けて恐縮だが、名古屋市議会解散に関して46万人もの署名を集めた河村市長もセルフプロデュースに長けた政治家だ。名古屋弁を使い、鎧兜姿で議会との対決姿勢を明確に打ち出すやり方が、市民から絶大な支持を得るための一助になっていることは明らかだ。
そして、同じ尾張名古屋の佐藤嘉洋。
定番のフレーズ「愛を知る県から来ました…」「明るく生こまい」等を常用することで、名古屋ご当地ファイターとしてのイメージを作り上げている。これもセルフプロデュースの一環だ。
これは、佐藤嘉洋自身が、対世間という観点からすると競技者として地味に強いだけでは不十分であることを潜在的に意識している顕れだろう。
そもそもセルフプロデュースを行わない表現者など存在しないのだ。
》web新とともに明るく楽しくtwitter
コスプレで入場する自演乙とは対極に位置すると見られがちな佐藤にしてみれば、派手なセルフプロデュースが持て囃されることは正直面白くないだろうし、競技指向者としてそれを蔑視したくもなるだろう。
しかし、私は「ちょっと待てよ」と言いたい。
セルフプロデュースとは、競技指向者から蔑視されるような行為ではないはずだ。
まず、セルフプロデュースの定義だが、何も競技そっちのけでコスプレしたり過激な発言をしたりすることばかりではない。
一人の人間に過ぎない一格闘家が、競技者然として立ち居振る舞うこともセルフプロデュースと言える。
例えば、一見するとセルフプロデュースとは掛け離れたように思える“ミスターストイック”小比類巻は、必ずしも試合に生かされない原始的なトレーニングに取り組んでいることをアピールしたり、線香の束を腕に押し付けた跡を披露したりと、実のところはセルフプロデュースの塊だった。
魔裟斗は自己管理の完璧はセルフプロデューサーだった。近頃の格闘家がブログで馬鹿をさらけ出してるような真似は一切しなかった。余計なプライベートは包み隠すこともスタアの条件なのだ。
逆にセルフプロデュースが出来なかったのがHAYATOだった(いつも引き合いに出してすみゃんせん)。テレビ局側の下手な演出に乗せられ、護魔修業を敢行。身分不相応の演出に身を投じたことで、軽薄な印象を格闘技ファンに植え付けてしまった。格闘家としての自己のイメージを崩さないこともセルフプロデュースの一環と言えるのだ。
唐突に政界に目を向けて恐縮だが、名古屋市議会解散に関して46万人もの署名を集めた河村市長もセルフプロデュースに長けた政治家だ。名古屋弁を使い、鎧兜姿で議会との対決姿勢を明確に打ち出すやり方が、市民から絶大な支持を得るための一助になっていることは明らかだ。
そして、同じ尾張名古屋の佐藤嘉洋。
定番のフレーズ「愛を知る県から来ました…」「明るく生こまい」等を常用することで、名古屋ご当地ファイターとしてのイメージを作り上げている。これもセルフプロデュースの一環だ。
これは、佐藤嘉洋自身が、対世間という観点からすると競技者として地味に強いだけでは不十分であることを潜在的に意識している顕れだろう。
そもそもセルフプロデュースを行わない表現者など存在しないのだ。
》web新とともに明るく楽しくtwitter