2月のK-1MAXで行われた上松と渡辺の一戦は、皆様方から様々な見方、捉え方のコメントが寄せられたことからもわかるように、K-1というジャンルについて考えるきっかけを与えてくれました。

K-1初登場の渡辺が自らのパンチでダウンするという茶番行為を演じてしまったことは何が問題なのか?

K-1を背負いながら戦っている魔裟斗たちは、渡辺の行為をどう思っているのだろうか?

自分のパンチで倒れたことをダウンと見なしたレフェリングは間違っていたのではないか?

渡辺のようにK-1を腰掛けにしか思っていない選手を起用せざるを得ないほどにK-1は人材難なのか?

それとも主催者が渡辺に対して、反則でも自演でもいいから試合を盛り上げてくれれば良い、総合デビューに向けての踏み台にしてくれれば良い、と考えていたのか?

・・等など、いろんなことを考えさせられましたが、私が思うに、渡辺が真摯な態度で取り組みたくなるような権威をK-1が有していないってことが一番の問題なんじゃないかなと。

だって、K-1なんてどうでも良いという渡辺のような選手をリングに上げてるわけだから。主催者の意に沿えば誰でもリングに上がれてしまえるK-1が軽く見られるのは当然でしょう。

しかし、試合に出す選手の人選をシビアにしたら、曙vs.サップのようなズバ抜けて面白いカードも実現しなくなるからなぁ。そこが大いなる矛盾て言うか問題だわなぁ。K-1なんてどうでも良いってスタンスの度合いを比べたら、曙もサップも渡辺に負けてないもんな。

K-1を権威という面から語るとき引き合いに出されるのがボクシングですが、昨日の世界戦で念願のタイトル奪取を果たした粟生の嬉し泣きを見ましたか?

K-1のチャンピオンになって、あんな嗚咽を漏らすほどに喜ぶ選手がいるでしょうか?実際、あそこまで人生を賭けてK-1に取り組んでいる選手なんていないんじゃないかと思いました。

ボクシングファンではなくK-1ファンとして、そう思いました。